この世界には私たちには認識できない「事実」と頭の中にある「認識」があると思います。

真の意味で「事実」を丸ごと認識できることは無く、その時の感情で事実の見方が影響を及ぼし過去になっていったことで「認識」となる。過去に起こった「事実」を知るすべはその痕跡を辿りそれを推測するしかない。そして人間には「そういった事実がありそうな痕跡」を用意する技術を持つ者がいる。

「そこにはりんごがあった」という事実があったとする。その事実を見た人にはほとんど見た通りに認識が宿ることだろう。けれど第三者の介入によって「リンゴの食べかすがあるという事実」が用意されると「誰かが食べた」という事実の痕跡をもたらしたことになる。

ここで第三者が何らかの意図をもって「これは最後のリンゴだった」「それを〇〇が食べた」という噓を主張する。はた目にはそれが事実かどうかなど知りようがないので「リンゴの食べかすがある」という事実からそういった事態が起きたという推測に誘導される。

こうして誰かが「貶められる」ことになったわけだ。

もちろんこの「誰か」が別の主張をして対立するであろうことは明白だがここで話したいのは「人間には事実を捏造できる能力」があるということ。意図を持った人間が自分に都合のいいようにその能力を使おうともすること。次の話に移ろう。





世の中ではしばし「正義」や「悪」(またはそれに類する語)といった言葉が使われる。

言葉本来の意味で使われること、というよりは言葉通りの認識で使われるのは珍しく大抵は過失責任などに近い使われ方のように思える。

〇〇が~ということをした。しかしこの行いは△△の考えで見ると正しくない。悪しき事件だった。

みたいな感じだろうか。

人間というのは責任の所在や適不適を語るのが好きなようで様々なつぶやきを見ることが出来るようになった昨今では然程珍しい文字列でもないはずだ。

そして珍しくないからこそ使用れにあふれ、意味から外れたり別のニュアンスが含まれていたりする。多様な意味を持った言葉は少なくないがここまで多様なケースで使われる言葉も多くは無い。

だから混乱する。この言葉の意味が何なのか。もはや辞書通りの使われ方かなんてものか理解が及ばない。

そこで分けてみよう。「使われ方」を。






・原因の言い換え
「元をただせば~が悪い」という感じで「悪化させた」つまりは都合の悪い方向に変化させた際の使い方。責任所在、物事の原因という事実に対しての認識がほとんどだったりします。なのでその人が観測して生まれた「何が原因なのか」という認識の数だけ違いが存在し、これが多様な言葉の使われ方を生み出しています。

・感情の対象
その事実などを認識した当事者、もしくは第三者が抱いた感情による発言などに多いです。これには観測者当人の価値観や感情が色濃く反映されるので客観的にどうか、よりも個々人の主観的なものでこちらも人の数だけ違いがあります。また感情をそのまま文章などにするのではなく、さも事実のように書いたり他者の大便のように言ったりするのでバリュエーションの富み方はこちらの方が多かったりします。どうとでも装えるので。

・利益を求めて
自分の地位などを高めたりするために正義や悪を利用する、「使う」ことで見られるもの。物語や歴史上の指導者なんかがイメージに浮かびますね。現代でも司法や犯罪に関わることでよく見かけます。この場合「正義」や「悪」という言葉が持つイメージを理解しそれがもたらす効果に期待して使われるので意味や使われる状況にある程度のまとまりが見られます。





正義や悪なんて言葉は意味からしても認識、感情などが絡むので使われ方が多様化するのはある種当たり前です。そのコミュニティでいくらでも立場が変わるし実際がどうなのかなんてあまり関係がないんですね。如何に自分の利益につながるのか、自分の損に繋げないか。に重きが置かれています。ネットなんかは個人の感情の吐露がほとんど、そのひとが実際に思っているように見せながら「こういう言い方をすればこいつを害せる」なんて考えで使ったりするなど様々です。

イメージを大切にしなければならない活動ほどこういったものへの理解や真贋を見極める能力が大事になったりしますが一般大衆でこういったものに振り回されるのは基本的に損にしかなりません。ならば関わらないという選択肢を持つなり、それにストレスを覚えるようなら向き合い方も考えなければなりません。

善悪が各所で議論されるような世の中ですができるだけ関わらない、関わるなら相応の理解と技術を持って臨むべきでしょう。こんなものの使い方一つで身持ちを崩すことなどないよう、気をつけていきましょう。